Copilotさんに、JOJOぽい絵を描いてもらいました。なかなかいいんじゃないでしょうか。
さて、「やれやれだぜ」は、空條承太郎の有名なセリフ。
危機一髪で潜り抜けて、「さあこれで終わりにしよう」とcoolに決めるときに発します。
私は時々、この言葉を頭の中でつぶやくことがあります。
これを言うと、なんだか心が落ち着くんですよね。
作者の荒木飛呂彦さん、このセリフを決め台詞に使うなんて、やはり天才です。
皆さんは、どんな時に「やれやれだぜ」って言いますか?
現在、兵庫県立美術館でキース ヘリング展が開催されています
1980年代を代表するポップアートの第一人者であるキースの作品は、皆さんも一度はご覧になられたことがあると思います
バンクシーは、世界の問題を(特に平和)テーマにしたストリートアートを展開していますが、キースはサブウェイ・ドローイングという黒色の紙とチョークで地下鉄の壁に描く手法で有名になりました
もともとは、バイトの帰り道で何気なく始めた活動だったようですが、評判を呼び芸術家へと転身していったようです
彼はゲイを公言し、当時のアメリカ社会におけるLGBTQへの差別に真っ向から立ち向かって行きました
そして彼の最後はエイズに蝕まれ、31歳という若さでこの世を去りました
彼の絵は、本当に親しみ易く、楽しい気分にさせてくれます
私は好きですね、ほんと
作品の写真撮影は、最後のコーナー以外OK
懐かしさと新しさと新鮮さと楽しさが混ざった、とても心地の良い空間が広がっている展示会場です
この展示会、女性一人で来場されているケースが多いように感じます
堅苦しくない、だけど芸術として楽しむことができ、作者のメッセージも受け取れる、すばらしい企画だと思います
そして最後にお買い物コーナーには
楽しいものが沢山ありますので、特にシャツやパーカー系は輸入物が多いので、サイズが合えばお買い得だとおもいます(最近はオーバーサイズが流行っているので、問題ないかも)
今週のお題「名作」
初夏のような気候
今年も酷暑だそうです
天気予報士さんでなくても、今年の長期予報はできるかも
さて六甲高山植物園では、色々な花が見頃になっています
まず目につくのが、至る所でニョキニョキ顔をのぞかせているユキモチソウ
4月28日現在、全く汚れのないユキモチソウを楽しむことができます
お近くの方はぜひ行ってください
神戸から案外近いんですよ
車だと30分ほど
電車ならJR六甲道か阪急六甲からバスで10〜15分ほどで到着する六甲ケーブルで山頂まで上り(景色抜群なんですよ)、そこから六甲山頂を周回するバスに乗ればすぐです
歩いてもいけますが、ちょっと距離があるかな
iPhoneでもこれぐらいの写真が撮れるぐらい、植物を近くで見ることができます
北海道と同じぐらいの気候らしく、高山植物がたくさん生息しております
定番のネモフィラも今が最盛期
写真も撮りやすいです。東京都心の植物園でもおそらく大賑わいだと思いますが、地方都市はあそこまで人混みはありえないので、結構ゆっくり楽しめます
六甲山頂駅付近には、5棟ほどのお土産、レストラン、カフェ、雑貨店があります
雑貨店は、地元神戸のハンドメイド革細工など、東京ではちょっとお目にかかれない商品もありまして、
続きを読む今週のお題「名作」
この作品のことは、随分前にもブログで書きました。
とにかく、会社ってなんだ。組織ってなんだ。人生ってなんだ。
そんなことを何度も繰り返し考えさせられる作品です。
故山崎豊子さんは、作品を描くときにモデルとなる人物を徹底的に取材していく手法を取るため、フィクションでありながらノンフィクションでもある小説を書かれる方でした。
Copilotによる「山崎豊子」まとめ
山崎豊子さんは、1924年1月2日に大阪市で生まれた日本の小説家です。彼女の本名は杉本豊子といいます。山崎さんは、大阪の船場出身で、老舗の昆布屋「小倉屋山本」の家庭に育ちました。彼女は旧制相愛高等女学校(現・相愛中学校・高等学校)と旧制京都女子専門学校(現・京都女子大学)を卒業後、毎日新聞社に入社しました。
作家としてのデビューは1957年で、生家の昆布屋をモデルにした『暖簾』を刊行し、これが映画やドラマにもなりました。翌年には、吉本興業の創業者・吉本せいをモデルにした『花のれん』で第39回直木賞を受賞し、作家としての地位を確立しました。その後も、『白い巨塔』や『華麗なる一族』など、多くの代表作があり、これらは映画化やドラマ化もされています。
山崎さんの作品は、大阪の風俗や商人の精神、戦争の非人間性など、社会問題をテーマにしたものが多く、彼女の鋭い社会派の視点が反映されています。また、彼女は作家活動を通じて、日本に帰国した中国残留孤児の子供たちの学資を援助するなど、社会貢献も行っていました。
2013年9月29日に89歳で亡くなった山崎豊子さんは、没後も多くの人々に影響を与え続けており、彼女の作品は今なお読み継がれています。
今日はメーデー(連合系)です
昭和40年代の労使関係がどのようなものだったのか、学生運動を卒業した全学連幹部が大手企業に就職して「更生」する中、なぜ主人公は労組の幹部を引き受け最終手段のスト権を実行したのか
こういうことは、歴史として引き継いでいかないといけないと思います(私は活動家ではありませんが、最近の新資本主義からの脱却を進めようとする動きを見て、やはりこれまでの資本主義は行き過ぎだし、人々を苦労させてきただけだったのかもとも思うようになっています)
しかし時間というのは本当に恐ろしいもので、15年前にはインターネットで読むことが可能だった御巣鷹山のJAL123便墜落事故に関する当事者のホームページが、軒並み消えています
ご本人がお亡くなりになったことが多くの原因だと思いますが、しかし、少なくとも沈まぬ太陽の主人公である恩地元のモデルとなった小倉寛太郎さんの東大での講演記録なども消えてしまっているのは、本当に悔しいです(と思ったら他のサイトに移植されていました。この下のリンクの一番下をクリック。よかった。ぜひ読んでほしい。特に東大現役生には(共産系団体のサイトだからと毛嫌いせずに。小倉さんは、本当に東大にあって東大の人です)
小倉寛太郎さんについて(Copiltまとめ)
1930年生まれで2002年に亡くなった日本の重要な人物です。彼は日本航空の労働組合の元委員長として知られており、山崎豊子の著書『沈まぬ太陽』の主人公・恩地元のモデルとされています。
彼の生涯は多岐にわたります。台北で生まれ、湘南中学校を経て東京大学法学部を卒業しました。大学在学中には、駒場祭の創設に関わり、初代委員長を務めました。その後、AIU保険会社(後のAIG損害保険)に入社し、4年後に退職して日本航空に入社しました。
日本航空での労働組合委員長としての彼の活動は、1960年代前半に低賃金で酷使されていた労働者の賃上げなどを要求し、経営陣と激しく対立しました。彼は日本航空初のストライキを指導し、皇室フライトでのストライキを決行するなど、労働者の権利のために戦いました。
また、彼はアフリカ研究家、動物写真家、随筆家としても活躍し、ケニア政府とウガンダ政府から野生生物保全管理官(名誉ウォーデン)に任命されました。彼の著書には、『フィールドガイド・アフリカ野生動物』や『東アフリカの鳥』などがあります1。
小倉寛太郎は、その生き方と信念で多くの人々に影響を与え、今もなお多くの人々に記憶されています。彼の遺した足跡は、日本の労働運動だけでなく、アフリカ研究や自然保護の分野においても重要なものです。
参考
実録 「沈まぬ太陽」アフリカ編 - J4 - JAL Flight Crew Unions -
日航社内報で「沈まぬ太陽」批判 小倉寛太郎さんのこと 分裂・差別の労務政策は日航経営危機の根源 - プロメテウスの政治経済コラム
1999年駒場祭講演会・小倉寛太郎「私の歩んできた道」 - みんせい東大駒場
この作品は、実際に起こった御巣鷹山の墜落事故の模様が、ノンフィクションで書かれています
私の記憶では、このシーンだけはノンフィクションとして後世に伝えないといけないとの信念から、山崎豊子さんが決断して書いたものです
生き残った3名の女性の証言も出てきます
この事故は、私も小さかったときにテレビで見て衝撃を覚えています
事故から日が経つほど、事故原因が明らかになってきました。客室と飛行機の外壁の間にある隔壁に亀裂があり、それが運航中に壊れ、操縦系統のあらゆる機械が操作不能となり、アンコントローラブル、ダッチロール飛行となり、墜落しましたということがわかってきました
事故当時は米軍も救援支援に向かうなど、世界的にも注目される大きな事故でした
そして日数を経るごとに、どうも整備不良が原因ではないか、そもそも日航の労務管理が不適切で過重労働の末に起こった事故ではなかったのかと報道されるようになりました
そこには、政財界の天下り先としての日航という顔があり、マネージメントをしない高級官僚的な役員たちと現場との軋轢、そして小倉さんをはじめ非御用組合の組合員たちへの陰湿な報復人事の存在が明らかになってきました
そうした中で、先日ご逝去された元鐘紡の会長、伊藤傑さんが政府の要請に基づいて日航の社長になり、その秘書官として小倉さんを抜擢しました
こうしたことを、私は沈まず太陽を読んで初めて知り、そして自分で色々な文献を当たり、どれがフィクションでどれがノンフィクションなのかを判断するようになってきました
まだまだ書きたいことはたくさんあります
この作品は、これからの人生を考えるために重要な本だと思います
名作です、間違いなく
ぜひお読みください
長編ですが、本当にすぐに読めてしまいます
そして泣けます
そして怒ります
そして感動します
今年の1月に、MacBook Airを購入
10年以上愛用してきたDynabookは、現在予備軍としてお休み中
本当によく頑張ってくれました
そして
25年以上利用してきたWindowsからも、身を引きました
※オフィスのPCはWindows機のままですが
今回、MacBook Airを購入するのにあたり、始めて知ったことがあります
キーボードに、JISとUSの2種類があることです
上の写真は、左がJISのMac、右がBluetoothキーボードUS配置
この2つ、一見同じに見えますが、まずキーボードのセンター位置が若干違います
一般的にUSキーボード配列のラップトップでは、画面中央にYが来るように、つまりキーボードの文字配列の中心が来るようになっているようです。ブラインドタッチをするときのホームポジションのど真ん中がYの位置になりますが、これがJISになると、キー1つ分左に寄ります
これはJIS配置の場合、かなや変換、無変換、半角などのボタンがUSに比べて多いためです
そのため、USの方がキーが若干大きく打ちやすいという評価をする人もおられるようです
で私の場合はというと、JISが染み込んでいるので、USは無理でした
特にenter key
大きさが違うんですよね
あの大きなenter keyでないと、誤入力してしまいます
これはもう習慣としか言いようがありません
そして、JIS派、US派は、時々言い争いもしているようです(笑)
それぞれにメリットがあるので、使いながら自分に馴染むものを探すのがいいと思うんですけど、まあ色々な意見があるのでね
さて、先日の記事でも紹介した通り、私はロジクールのワイヤレスキーボードを購入しました
これは職場のラップトップ用に購入しました
職場では最近外部モニターが配布され、ラップトップに繋いで2画面作業する形が基本スタイルになりました
ここで問題なのが、キーボード
2画面になると画面は拡張モードにしますので、2つの画面はできるだけ近づけたい
そうなるとラップトップのキーボードは、ディスクの端に移動するので打ちにくい
なので必要になったというわけです
職場で配布される物もあるのですが、どうしてもコスパ重視になるので、気に入ったものを自分で購入したというわけです
で、これの良かった点を書いてみます
では、悪い点はというと
キーボードは、皆さんの手の大きさや指の長さ太さによって、しっくりくる、こないが決まると思いますので、色々触って確認して購入することをお勧めします
最後に、いくつか下に商品リンクを貼っていますので、ご参考にしてください
今週のお題「名作」
小説家、キュレーター、カルチャー・エッセイス
東京都小平市生まれ
小学6年生から高校卒業まで岡山県岡山市育ち
岡山市立三門小学校、岡山市立石井中学校、山陽女子高等学校、関西学院大学文学部日本文学科、早稲田大学第二文学部美術専修卒業。馬里邑美術館、伊藤忠商事、森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館に勤務後、2002年にフリーのキュレーターとして独立
キュレーター(美術館で美術品の鑑定、研究を行う専門職)ということもあり、美術に絡んだ小説が多いです小説家さんです
「楽園のカンヴァス」は彼女の才覚が十二分に生かされた作品だと思います
今まで見てきた美術作品、例えばゴッフォとかは、単に学生時代、教科書で見たものが目の前にある程度の感想しか抱かなかった私が、作品完読後、作品を見るとそれが完成するまでの物語とともに何故ここがこのような表現になったのか、なぜこれを描いたのか、なぜこの色使いなのか等々、目の前の芸術作品が私に語り始めてきました
美術品を心から始めて楽しめたのは、原田マハさんの作品のおかげでした
彼女は芸術系作品だけを世に投じているわけではありません
皆さんもよくご存知の「キネマの神様」は彼女の作品です
それ以外にも、日常を描いた作品もたくさんあります
その中で今日紹介する小説『翼をください』は、私の知らなかった戦前・戦中の歴史を知ることができたきっかけとなりました
少し作品について語ります(ネタバレあります)
この作品は、史実に基づいたフィクションで、日本で世界一周飛行を成し遂げた航空機「ニッポン号」と、米国人女性で初めて大西洋単独横断飛行を達成したエイミー・イーグルウィングの勇気と感動のストーリーです
物語は1939年、第二次世界大戦前の時代にさかのぼります
新聞記者の青山翔子は、世界初の世界一周旅行を果たした毎日新聞の社用機「ニッポン号」の写真を見つけます
彼女はプロジェクトにカメラマンとして参加していた男を追って、アメリカのカンザス州へと飛びたち、かつて翔子と同じ写真部にいた老人と出逢います
そこで聞いた話は、本当なのか疑わしいほどのダイナミックな物語であり、半信半疑のまま、日本に帰国します
このエピソードは、第二次世界大戦前の実際の出来事を元に描かれており、さらにアメリカ人女性パイロットであるアメリア・イヤハートの物語も組み合わせています
この小説は、テンポの良い展開と細かい描写が両立しており、読み始めると一気に最後まで引き込まれると思います
とにかく、あっという間に読むことができます
戦争を知る人も知らない人も、世界平和を考えるきっかけとして、ぜひ一度手に取ってみてください
間違いなく、名作です
以下、作品に登場するニッポン号に関係する参考を記載して終わります
「ニッポン号」:1939年に毎日新聞社によって世界一周飛行に使用された航空機
元々は海軍から貸与された九六式陸上攻撃機を改装したもの⚪︎飛行までの経緯
1937年に東京朝日新聞が「神風号」という名前の東京からロンドンへの長距離飛行を成功させたことに刺激を受け、毎日新聞社(大阪毎日・東京日日)は世界一周飛行を企画
毎日新聞は海軍航空本部教育部長の大西瀧治郎や海軍次官山本五十六に協力を依頼
軍令部は当初、現用機の貸与に反対していたが、最終的に九六陸攻の貸与を認可
改造機体は、兵装が撤去、胴体内部に座席7席を設置、燃料タンクを増設
これにより、燃料搭載量が増加、寒冷地飛行用の装備も搭載
⚪︎世界一周飛行スタッフ
ニッポンの乗員は以下の7名
使節団長:大原武夫
機長:中尾純利
副操縦士:吉田重雄
機関士:下川一
技術員:佐伯弘
機関士:佐藤信貞
機関士兼通信士:八百川長作
⚪︎飛行経路
1939年8月26日に羽田飛行場から出発し、アメリカ合衆国各地を来訪
しかし、第二次世界大戦が勃発し、予定されていたフランスからイギリス、ドイツへの飛行が不可能に
ニッポンは南米へ向かい、大西洋横断飛行を敢行
その後、ダカール、カサブランカ、スペイン、イタリア、ギリシャ、イラク、インド、タイを経て、10月20日に東京に帰還