まとめて言うと
- 8/1毎日新聞朝刊の斎藤環・筑波大教授の投稿が掲載されていた
- コロナ禍にあって、やれリモートだやれ地方への移住だのとの声が多い中、日常に戻ろうとする動きは人間として当然の感情だと
- 行き過ぎたコロナ・ピュータリズムは社会を痛めつけるという部分は共感
- 刺激の強い報道内容に振り回されることなく、冷静を保ちつつ普段どおりの生活に戻していくことが、Withコロナの秘訣だろう
8/1毎日新聞朝刊にこの記事が掲載されました。
オンラインでのやりとりが増えたコロナ禍で改めて見えてきたのは、人と人が直接会うこと自体に潜む暴力――「臨場性の暴力」と、その暴力をどこまで許容できるかという個々人の感受性、認容性が多様であるということだ
暴力という言葉は刺激的だが、ここで使われている意味は、「自他の境界を越えて迫ってくる力」という意味です。権力と個々人の関係で法律用語として「パターナリスティックの制約」というのがあるが、これは少し違うが何となく似ているように思います。
精神科医でいらっしゃいます。
コロナ禍で人と直接会うことが少なくなる中で、程度の差はあれ、臨場性の暴力を多くの人が実感できたはずだ。たとえ相手が自分の好きな人だったり会いたい人だったりしても、いざ会う直前になると憂鬱になる。会ってしまえば楽しく話ができるのに、なぜか気が重くなる。こうした私的な感覚を私が今年5月にブログで発信すると、驚くほど多くの人の共感を得た。感染が再拡大する中、いいかげん元の日常に戻ってほしいという気持ちと、頻繁に人に会わなくていい気楽さが続いてほしいという相矛盾する感覚は、多くの人が抱いているのではないか。
月曜日に学校や会社へ行くことが鬱陶しいと感じることを、このように説明してもらうと非常にスッキリします。自分の心の中にある臨場性の暴力と日常との矛盾する感覚が混乱を招いているんですね。
今、官公庁や大企業は、コロナ禍を契機にリモートワークやワーケーションを進めようとしています。これは随分前から働き方改革の中で推進すべきといわれながらも習慣を変えづらい組織体質との摩擦で言葉だけ先行していました。
しかし、ここにきて社員の安全確保の必要性や社会的な要請もあり、一気に進めようとしています。
一方で、従業員側からは否定的な意見も出ているし、もっとも抵抗しているのは定年間際の年齢層の人たちである。特に人と人とのコミュニケーションやネゴで仕事をしてきた世代ですから、自分たちの伝家の宝刀を奪われかねないわけですから。
齊藤先生の投稿をお読みいただければわかりますが、何もかもがコロナ禍で変わるわけではないです。変わりようもありません。しかし、コロナ禍で変わるものは変わります。
この矛盾した内容が両立することを、齊藤先生はこの記事で仰っているんだと思います。
人が臨場性の暴力やそれが支える構造から離れて生きることは難しい。それ故に、社会が完全にリモート化することはなく、コロナが終息すれば、ある程度日常は元に戻るだろう。その際は、暴力を緩和する手法を検討すべきだ。すでに社員のリモートワークの選択を恒久的に可能にした企業もある。臨場性には暴力があるということを多くの人が共有できた今こそ、手法を検討する大きなチャンスだ。
つまりコロナ禍を通しての社会変化が、私たちに臨場性の暴力を気付かせてくれたことは非常にありがたいので、それを皆で共有しながら日常に戻れば、これまで以上に過ごしやすい社会が実現する、と言われているんだと思います。
また、コロナ禍での臨場性の暴力の気になる現象として、社会的正義を絶対のものとして活動する人たちの行動があります。自粛警察とかは代表例。その人たちを清教徒革命のピューリタンに例え、コロナ・ピューリタンの正義の暴走と表現されています。
道徳的規範になると、正義が暴走する。「自粛警察」が登場し、感染リスク回避を守らないやつは社会の敵であり、バッシングされても仕方ないという風潮になる。感染者が謝罪させられるというのは日本だけにある奇妙な風習だ。メディアが感染したスポーツ選手やタレントの謝罪場面を肯定的に報道することからやめていかなければ、感染は悪いことだという意識がますます広がり、感染した事実を隠蔽(いんぺい)する動きにもつながる。それは市中感染のリスクを高め、社会にとっても不利益だ。
日本人はこれまでから、このような風潮の禍に何度かひどい目にあっています。明治維新時の神仏迎合による廃仏毀釈、戦時中の鬼畜米英や欲しがりません勝つまではというスローガンなどはその代表例です。考えたら世の中が不安定で混乱するとき、人は大変なストレスから何かにすがろうとします。その時に大勢の人が「そうだ!」と思えそうな思想やキャッチコピーがあれば、それに乗っかり、あたかも自分たちが抱える不安をこの波にさえ乗れば乗り越えられると「思い込む」ことで「ストレスを心の奥深く沈め、意識から遠ざける」ことを無意識にしているのではないでしょうか
行き過ぎたコロナ・ピューリタニズムは、社会の有り様を貧しくする。不潔の回避や健康重視という発想が行き過ぎ、健康イコール正義であり、不健康はことごとく悪だというような貧しい規範が生まれつつあるように思う。そうならないためには、ゼロリスク社会ではなく、むしろ、リスクを負う尊厳を大切にする社会の有り様を、感染防止対策と並行して考えていく必要がある。声高には主張しにくいが、それがないと痩せた文化、痩せた社会になってしまいそうな懸念が大いにある。
人は千差万別。考え方も万別です。よって、毎日ニュースで知識人だのタレントだのが構成作家の台本に沿って発するコメントは、その局のあの構成作家の基準なのです。それに私たちは振り回されてはいけないのです、きっと。
「臨場性の暴力」や「リスクを負う尊厳」という考え方は、日常を回復する際に、どのようにどこまで戻るべきかを考えるきっかけになる。思考停止してただ原状復帰を目指すのではなく、メリットとデメリットを踏まえ、以前よりもっと繊細な配慮ができる社会に向けて回復していく手順や、落としどころを探っていくことが大切だ。
この記事を読んで感じたのは、刺激の強い報道内容に振り回されることなく、冷静を保ちつつ普段どおりの生活に戻していくことが、Withコロナの秘訣なんだろうなということです。
毎日新聞はこの記事を掲載しつつ、1面では刺激の強い言葉を使った記事を掲載しています。報道企業であっても、やはり企業。各部署が競っているわけで、同じ新聞社内であっても、面によって言葉の使い方に大きな差があります。
毎日新聞は、文化面がとても良いですし、私は大好きです。書評なんて優れていますし、本を購入する時の参考にしています。
しかし一方で、政治面は嫌いです。あまりにも現政権を「強すぎる表現で攻撃しすぎ」です。読者の私個人の意見ですが、皆さんはどうでしょう。ほかの新聞も同じことが言えるのではと思います。朝日新聞の経済面は結構好き。政治面は見たくもありません。
よって、私たちは有識者による良い記事を見つけて勉強しながら、マスコミに振り回されることなく、自分なりの考えと判断と責任で普段の生活に戻していくべきなんだと思います。
なにわともあれ、今日紹介させていただいたこの記事をお読みください。良い記事です。