今週のお題「読書の秋」
PHP文庫が1989年に出版した本です。
著者は竹本昴仙(たけもと・こうせん)という方です。
昭和3年に神戸で生まれ、新聞、週刊誌記者等をしながら易占・気学を学ばれたようです(本書記載の著者紹介より)。
すでに絶版なので書籍で買い求められませんが、町の図書館にあるかもしれません。
最近は、市町村の枠組みを取っ払って、住んでいるところの隣町の図書館が手続きなしに利用できるような環境も整ってきました。こういった昔の書籍に出会えるのも、図書館の良いところです。
この書籍は易占の本ですが、易占の方法やテクニックを紹介するというより、易占で出た内容を、実際に起こった歴史上の出来事に絡ませ、易占ででた象意から読み取れる人生哲学を教えてくれる良書です。
沢天夬(たくてんかい)という大凶の卦(か)を自ら出したのに、国家の一大事だからと京都に上り暗殺された佐久間象山の話や、三国志で有名な諸葛孔明や古代中国の仁義にいきた白夷と叔斉兄弟など易占を交えた逸話を孔子や司馬遷がどう評価していたかという話などが盛り込まれていて、なかなか面白い。伊集院光さんとか博学の人にとっては、おそらく好きな内容じゃないかなと思います。
この本の面白さを伝えたいので、書籍の内容を幾ばくか拝借して記載します。
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陽明学者として有名で、昭和日本の政・財・官界などに隠然たる影響力を持っていた故安岡正篤氏は、(中略)「易と人生哲学」の末尾で次のように語っておられます。
「易に通じるものは占わず」という言葉さえありまして、占う必要がないという見識になって初めて易学をやったといえるのであります。
これは易学をやる者のわすれてはならない一つの根本問題です。易学をやるという事は、占いを学ぶのではなく、占う必要のない知恵を得る、思索、決断力を養うという事なのであります。
こういうわけで、易占が当たる、当たらないにこだわりつうけることは堕落だ、と安岡先生は戒めておられる。さすがに安岡先生で、私も、まことにお言葉のとおりである、と思う。
ただ、先生のおっしゃるような境地に達するまでがたいへんなのである。
易経と聞くと、それをすぐさま卜占(ぼくせん・偶然に出た結果により占う占術)だけに直結させ、「迷信は嫌いだ」と横を向く人が少ない。
もったいない話である。「菜根譚(さいこんたん・古代中国の思想書)」もいい、「酔古堂剣掃(すいこどうけんそう・中国明朝末にまとめられた勇猛果敢な逸話集)もいい、もちろん「史記」もけっこう。
しかし、人間学、生き方の知恵を授けてくれる、という点では、易経は独自の光芒を放ってわれわれに迫ってくるのである。食わず嫌いは、大きな損であろう。
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私も占いは好きです。
なぜか。
自分で自分の人生の決断ができないから。
自分で自分自身の事がわかっていないから。
自分が相手の事を分析できていないから。
そういう時、将来のことを正しく教えてくれる人がいないし、気になる相手の気持ちなど聞きにくい内容もある場合、誰にも知られないで知りうる方法として占いを頼りたくなるのです。
占うと、YesかNoかが出てきます。それを聞いただけで、問題が解決したように思うんですよね。でも、なにも解決しないんです。
私は算命学とか四柱推命とかタロットとか、色々と見たりやったりしてきましたが、どれをやっても最後に行きつくのが、人生哲学。算命学も数冊本を読みましたが、脳裏に残っているのは次の2冊です。
人間の星(西川満) 人間の運命(國弘三恵)
この2冊とも、最後に書かれていることは、「祈り」が大切であることです。
「祈り」とは、なにか。
幸せになりたい、お金持ちになりたい、出世したい・・・
それらは祈りではなく、欲望です。
祈りとは、自分の周りの人たちの幸せを願う事、世界が平和であることを切望すること・・・それが祈りです。
人生、占いに頼らなくても、やはり正しい心と正しい行いを続けていれば、幸せになるよ、そうゆうことなんだと、この本が教えてくれたような気がします(そのほかにも色々読んだ結果、その結論が確証に変わりました)。
この易経入門も、色々な人生教訓を教えてくれる本です。
私が安岡正篤さんのような境地に至れるかは不透明ですが、この本を通じて易占を学ぶことで、長い人生を生き抜くテクニックを少し学べるような気がします。
写真 ダリア
花言葉「移り気」「華麗」「優雅」「感謝」「威厳」「裏切り」「不安定」
※移り気な人の心のようですね。