ともほ じゃーなる

まいにち の ものがたり

今、危惧していること

この記事を読んでほしい。
学習院大学教授・鈴木亘のブログ(社会保障改革の経済学)
http://blogs.yahoo.co.jp/kqsmr859/35384381.html
小生の少ない経験からいうと、マスメディア、特に新聞については「ベタ」と「〆」に制約されているため、取材源の意図と大きく異なる形で「記事」になることがある。記者のパーソナリティにもよるが、多くの記者は、取材源から得た情報をもとに起稿し、デスクでしばかれて校正し、編集でさらに遊ばれたあげく、自分の意図しない記事となり、結果、取材源から嫌われてしまうような経験をしているのではないかと感じる。
今回、この教授は、NHKでそれを経験したようだ。学者にとって、自分の見識を誤った形で外部に広められるのは、死活問題につながる。教授が怒り心頭の状態になるのは、当然である。
なぜ、NHKは、こんな失態をしたのだろうか。そこには、読者・視聴者である国民と、ニュースを提供するマスメディアとの関係の変化が、原因としてあるように思う。インターネットの普及などで、様々な手段により国民が必要とする情報が得られる環境が整ってきている中、情報入手に関する国民の既存マスメディア(テレビとか大手新聞社とか)への依存度が低下してきているのではないだろうか(一般的には、そういう声をよく聞く)。
先日の記事にも書いたが、新聞を読む人達が少なくなっている。それは、数値的にも確認できる。

これは、新聞協会で公表している新聞の発行部数をグラフ化したものである。
世帯数は、住民基本台帳の数値を使っている。世帯数が上昇しているのは、単身及び夫婦のみの世帯(子ナシ、老世帯など)が増加しているためだ(参考:http://www.stat.go.jp/data/nihon/02.htm)。
世帯数に反比例するように、新聞の発行数、一世帯あたりの部数が減少している。
では、かわりに電子デバイスを介した情報入手が増えているのだろうか。

インターネット利用者(個人単位)は、皆さんもご承知のとおり、すごい勢いで多くなっている。
その中で、新聞のコンテンツ(有料)の利用者は、どれぐらいいるのだろうか。
下図は、そのトレンドを示している。

携帯電話を介して有料コンテンツを購入している人は、全体の2割程度にとどまっている。ただ、これは有料コンテンツとしてのカウントであるので、たとえば日経の無料コンテンツ会員や、グーグルニュースなどの利用者は入っていない。つまり、実数は不明である。
 ここで次の通り仮定してみる。
◯世帯数の伸びに反して新聞部数が減少しているため、宅配や店頭購入型のニュース購入は減少していると仮定する。
◯インターネットの普及から、インターネットを介したニュースの読者は増えていると仮定する。
◯しかし、有料コンテンツの利用者はネット利用者の2割程度にとどまっているため、新聞購入者がサイト利用に大きくシフトしたとは言えないと仮定する。
◯有料コンテンツ利用者を除くネット利用者は、新聞より情報量が少ない「トピック型」ニュースを利用していると仮定する。
 最後の項目は、完全に「自分の経験に基づく推測」だが、こう仮定すると、次のようなニュース読者の現像が浮かび上がる。
1 新聞を敬遠する読者が増加
  インターネットを介して提供される少ない情報(Googleトップニュースや、TVの動画ニュースなど)で、満足する読者が増加した。
  ※情報リテラシーに関する安価(極論、タダ)、短時間(読むのに時間がかからないという意味)、簡単化(記事が少ない)
2 長い記事を嫌う読者が増加
  情報の安価、短時間、簡単化で、短い記事になれたために、新聞のような長文を読むことが精神的に苦痛(苦痛に思う理由としては、時間がもったいないとか、お金がかかるとかをあげるだろう。しかし、大学入試問題と同じで、長文を読むには、根気(忍耐)と知識と洞察力がいる。つまり、脳トレしていないと、精神的・肉体的に辛いのである)になった読者が増加した。
3 インターネットへの信認の高い読者が増加
  ネットニュースには、色んなソースがある。大手報道機関から、2chまで。2chなどは、原発事故の時もそうだが、ガイガーカウンターをもった「住人」が、独自に測定結果を報告しあっていた。これは、結構、面白いし、信用もできる。なぜかというと、間違った情報や煽り住人がでると、そのソースに対して一斉に攻撃がされ「炎上」するのである。つまり、うかつに「嘘」を書き込めない。ニコニコ動画にいたっては、ライブ中継で政治家の生の声を発信したりしている。インターネットは、今や「マスメディアとしてのインフラ機能」を有するに至ったのである。
  浜矩子教授の本を読んでビックリしたことがある。出典をウィキペディアにしている箇所があったのである。インターネット上では、確かに便利で「おそらく」確実な情報を提供してくれるウィキペディアだが、周知の通り、読者が創る百科事典だ。しかし、仮にも学者が書く書籍に引用するたぐいではないと思うが、浜教授にしたら、間違いではないしというので使ったのだろう。
  それほど、インターネットで提供される情報への信認は、一般化されてきているのではないか(ユーザーのリテラシー能力が上がっていることも忘れてはならない)。
 こう考えていくと、国民にとって、新聞という時間的にも費用的にも精神的にも「高コスト」なメディアは敬遠され、安くて簡単に、かつある程度信用できるマスメディアとしてインターネットが利用されているのは、今のトレンドだと言える。
 で、私が今言いたいのは、安価、短時間、簡単化を望む読者は、情報提供者に対して、難しい事柄でも直ぐに簡単に情報提供してほしいと期待しており、その結果、「編集」という過程で、本来伝えるべき事柄をショートカットしてしまう傾向が、今のマスメディアにあるのではないかと危惧しているということである。こうした傾向は、今後、増長していくだろう。インターネットのコンテンツが増えれば増えるほど、新聞は益々売れなくなり、アホみたいな刺激的な雑誌も飽きられ、出版業界全体はより氷河期に突入するだろう。その影響は、テレビにも当然及ぶ。出版業界が取り組み始めた電子コンテンツも、今まで通りの色々読むのが面倒くさい長文のコンテンツは売れないし、読者は、ほとんど中身のない短文ニュース、又は見るだけでいい動画ニュースに、より寄りかかっていくのに違いない。より短く、分かりやすく、お金のかからないものに・・・
 こんなので、大丈夫なんだろうか。日本人がバカになっちゃう。ニュースすら読めない(この場合、真実を探り当てる能力が欠けるという意味)国民になってしまう。これって、恐ろしくないか。ちゃんと物事を知らない人たちに対して、仮に刺激的なニュースをTwitterで流してみるとどうなるか(たとえば、ミサイルが飛んできたとか・・・)、想像しただけで背筋が寒くなる。
 前の記事にも書いたが、日本はポピュリズムな社会であり、その原動力はマスメディアである。しかし、翻って、その原動力のコントローラーは国民である。だから、本来、国民はマスメディアと同等かそれ以上に情報を理解するための知識を持たなければならない。
 しかし、現状は違う。国民が情報を、安価、短時間、簡単化で提供することを望んでいる(つまり、勉強しない。でも知りたいことは、ちゃんと教えて欲しい。でも、勉強していないから、ちゃんとした情報かどうか、判断できない。だから、情報が間違っていたら、マスメディアを訴えてやるっていう、子供じみた思考回路から、こういった事を望んでいると、私は仮定しているという意味)から、マスメディアは右へならえしているのではと思う。
 こうした中にあって、マスメディアには筆を独占する機関として、大いなる自覚をもって、報道活動に取り組んでいただきたいのだが、TVのやらせ問題しかり、どこかの局の韓流騒動での対応(つまり、騒動の元凶の俳優の報道はするが、その報道に対するファン等々のデモ行進は報道しない)しかり、どうも、持つべき自覚を持たず、国民と一体化して思考停止の状態で報道活動しているように思える。
 鉢呂前大臣の辞任会見について、暴露話がチョクチョク出始めた。本当は、あんな発言なかったのでは?とか。辞任会見で、とても大人とは思えない発言をした記者は、どういった気持ちであのような発言をしたのか。私は、確かに個人的資質の問題はあろうとは思うが、多くは、こういった発言(パフォーマンス)に対して国民は支持してくれるだろうという確信が彼にはあったのだと思う。国民「感情」=現在の正義=自分の考え、という図式が彼の中にあったのではないだろうか。
 鈴木教授の件にしても、NHKのスタッフに悪気はなかったと思う。しかし、2意見対立という構図が、「視聴者の好むわかりやすい型」という思い込みが、本来報道としてすべき「責務」を忘れさせ、「本質が欠けた状態での編集」につながったのではないだろうか。
 
 マスメディア批判は、確かにマスメディアの不甲斐なさからおこっている。
 しかし、そういったマスメディアを育ててきたのは、国民である。
 一番、自覚して報道を扱わなければいけないのは、私達国民であることを忘れてはならない。
 
(了)

2011年新聞・テレビ消滅 (文春新書)

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