ともほ じゃーなる

まいにち の ものがたり

3月3日放送「前 外務省事務次官 薮中三十ニ」

日本の政治は、とかくゴシップネタ満載の傾向が強い。
しかし、本来の政治は、ゴシップネタに隠れた地味な世界に存在するのではないか。
今回の放送で、私はつくづく、そう感じた。
公館に人を招いて人間関係をつくる、これが外交官の基本
行革の嵐の中、内閣官房や外務省の機密費問題がクローズアップされてきた。
それは、当然のように不透明にすべきと内部の人間が考え、それをベースに仕事をしつづけ、国民からの不信を招いた結果だった。当然、その状況に至るにはマスメディアの多大なる貢献があった訳だが。
薮中前外務次官がいう、在外公館が果たすべき役割。それは、まさに近所づきあい。
世界は広い。沢山の人や国や文化がある。しかし、根っこは、コミュニティーアニマルであるため、近所づきあいの方法は、そう各国違うはずもない。日本人は特異だと言うが、そうだろうか。ご近所さんとの付き合い方に、それほど差異があるとは思わない。日本人は、自分達を特異だと思いすぎなのだと私は思う。
近所づきあいを上手くするには、相手をもてなすことから始まる。ご近所を家に呼ぶ習慣は、今の日本には少ない。理由は、家が狭いから。昔の日本では、他国同様の習慣があったようにいく。いや、もっとオープンだったようだ。
今の日本人は、隣人や職場を含む社会における人間関係づくりが希薄になっている。一部の人たちだけが、あたかも親友のような顔をして付き合っている。こんなんだから、外交も下手なのだろう。
日本人は、もっとオープンにならないといけない。招き入れることが苦手なら、相手に飛びこんで行ってもいいと思う。
薮中氏が、料理とワインでもてなすといったのは、行革厳しい世知辛い現在だと、ちょっと浮世離れしているようにも思うが、近所づきあいにはお金と時間がかかるのだ。だから堂々と、こういった経費は使うべきだし、近所づきあいの経費をオープンにすると、誰と仲良くしようとしているのかバレテしまって面倒なことになりかねないというなら、ちゃんと、国民に説明して理解を得る努力が必要だと思う。ここが、いままで外務省が下手だったところだろう。
 
究極の交渉術全くベーシックな内容であり、これが真理なのだろう。
孔子は、弟子との会話の中で、論語の中心は忠恕だといった。忠恕とは、相手の立場に立って物事を考え行うことである。究極の交渉術も、相手が何を求めているのか、どういった結論を考えているのか、それは急いでいるのか、本気なのかどうかを見極めることと言っていたが、まさしく、自分の近視眼的な発想ではなく、高所大所に立って相手を観察し、相手の「立場」にたって本当に求めていることを掴み、Win-Winになれる結論を見出して前に進むことであろう。これは、忠恕をわきまえている人なら出来ることだ。
何でも基本が大事というが、その好例であると思う。
 
言うべきことをいう勇気
私もそうだが、大抵人間は、人との軋轢を嫌がる。
コミュニティーアニマルだから仕方がない。
しかし、本当のコミュニティを確立するなら、軋轢をも乗り越えないといけない。
原敬子さんという、育児研究家がいる。彼女の言葉でいえば、無理なく相手に対して断れる関係が、信頼のある関係。
これには時間がかかるだろうけど、そして勇気もいることだけど、必要なことではないだろうか。
 
日本の外交の未来には、無理なく他国に「断ることができる」力が不可欠だと思う。