ともほ じゃーなる

まいにち の ものがたり

中庸

今回の、京都大学等での入試不正事件に関して。
私は、非常に恐ろしいものを感じている。
確かに、今回の不正行為は、あきらかに真面目な学生たちの努力に対して不誠実で下品極まりない。
しかし、逮捕というのは、どういうことか。
偽計業務妨害などというが、それによって逮捕された他の事件と、今回の事件との比較をしたら妥当なのか。
警察は、被害届が出たから逮捕したというだろう。しかし、事件性が低い場合、受理しないはずだ。
京都大学は、あまりに酷い状態だったからというが、本当にそうか。マスメディアが騒ぐ前にちゃんと措置しておいて、メンツを保っただけじゃないのか。
マスコミは、数多ある事件の中で、トップ扱いするほどの内容だと判断して取材したのか?
色々と考えさせられる事件であったが、私が一番怖かったのは、私の近くにいる人が言った一言である。
「当然、逮捕でしょう。当たり前じゃん!」
本当に怖かった。この人になぜと聞くと、「酷いことだから」という。
この人がこの事件で知っている情報と言えば、なぜこの事件が起こり、捕まった予備校生の心身の状態のことも知らない状態の中で、マスコミから流れてくるニュースのみ。それでなぜ「酷いこと」と断言できるのか。
私は最初から”逮捕はやりすぎ”と思っていたので、それを伝えたら、「それはおかしい」という。なぜおかしいのかというと「だって、酷いじゃない」という。
それ以上会話しなかったが、つまり、この人のこの事件の判断は、マスコミの断片的な情報によって起こった感情だけなのだ。それで「酷い」→「逮捕は当たり前」と考えている。いや、反応しているのだ。
思うに、この人は、多くの日本人もそうだと思うが、何事にも自分なりのポリシー、ソースを基準に判断していない、考えていない、感じていないのではないだろうか。逮捕という意味がわかっていない。こんなに簡単に逮捕される世の中になってしまったら、道に唾を吐いただけで、懲役刑になる社会に進んでしまう。
 
人間社会にはルールが必要だが、それにはアソビが必要ではないだろうか。そして、その時々の状況に合わせて「これぐらい」という基準を考え、それによって裁定すべきではないだろうか。誰もが同じ環境で育った人間でない。ルールは必要だし、それは守るべきだ。しかし、破ったからといって、その程度も加味せず、極端な判断をするのは、あまりに下劣ではないだろうか。
 
中庸という言葉がある。もっとなじみのある言葉で言うと、塩梅。加減が必要である。極端であってはいけないと思う。それがないと、社会が壊れてしまう。そう思いませんか?
 
先日、神戸で姜尚中教授の講演会があり、多文化共生をテーマに話をされていた。その中で、「社会は多様性にあふれており、その社会が円滑に回るためには、他者に対して寛容である必要がある。そうでないと社会が良くならない。日本人は、清潔・潔癖すぎる。その傾向がますます強まっている。生物には、少し異物が体に入っても共生できるような耐性が必要だが、耐性がなくなると、その生物は死滅する。日本はそのような状況にあるのではないか。」と言われた。
まさしく、心身ともに耐性がないのが、今の日本人である。だから、ルールを作って、それを基準に異物が入らないようにしたがるのではないか。そして、ルールが極端になり、ルール違反者を社会から消去する作用を強めているのではないか。
 
このままでは日本は夜警国家になってしまう。しかし、夜警国家にするのは、国の機関がするのではない。マスコミに踊らされた民意が、それを要望するであろう。
 
満州事変が起こった時、当時の内閣や大本営関東軍を処罰しようとしたらしい。しかし、それを許さなかった人がいる。それは民衆である。民衆は関東軍の行為に熱狂した。そして、それを煽ったのがマスコミ。
 
日本人はマスコミとの付き合いが下手である。旧ソビエト連邦の市民などは、マスコミが流す情報の2/3は嘘だと思っていたらしい。
それぐらいで丁度いいんだと、私は考えている。マスコミだって、時間もないし、人もいないし、新聞売らなきゃいけないから、そんな、教科書みたいに内容を吟味して毎日ニュースをリリースできないだろう。多少の間違い、誇張、嘘があっても、それは、読み手が自分でフィルターをかけて吸収すればいいのだから。
 
私が文中で怖いといったのは、このフィルターを多くの人が持っておらず、そして、またこの人が素直に怒っているのを見て「純粋な人の怖さ」を感じたからだ。
70年前の悲惨な戦争を起こした時と、多くの日本人の精神状態が似通っているとすれば、ロシア、中国がやっている刺激的なことへの、日本人の反応が極端になりやしないかと、本当に怖くなるのである。