カレーに納豆かけたら悪いか?

色々な植物の写真とコラムなどを書いています。植物写真は、ある程度の数をアップしたら1カテゴリーにまとめる予定。

ようやくカメラが復帰しました

いや〜、ながい入院でした。某Kデンキのスタッフには色々とお世話になりました。
「故障の原因は、不明!」ってのが、メーカー側のオフィシャルアンサー。でも、きっとですが、レンズ内の手ぶれ補正機能の故障だったのではないかと思われます。メーカーさんは、原因と思われるところの部品を全部取り換えてくれたようで、かつボディ等々も新品のように磨きあげられて帰ってきました。これで益々愛着をもって写真撮影ができます。感謝感謝。

この写真は、ぶっ壊れる前に撮影した五重塔です。ピクチャーソフトにてちょこっと補正しております。考えてみると、私がカメラを本格的に始めた高校生の時代。まだミノルタα7000というAFが出たばっかりの時代でしたけど、そんな頃は暗室で露光調整しながら印画紙に焼き付けておりましたが、いまはワンクリックで色は変わるわ、明暗の補正はできるわ、あげくに白色だけの補正ができるわ。今ちょっと思っているんですが、これってもう写真じゃありませんね。なんか、もう、完全にペイント(絵画)の世界ですよね、特に作品ができるまでの工程を考えておりますと。
昔、アンリ・カルティエ・ブレッソンという写真家がトレーミング自体も否定しておりましたが、彼が生きていたら、もうびっくりというか、呆れるというか、信じられない時代だと感じるでしょう。今の写真家を取り巻く環境は、とてもいいと思います。自由な作画に取り組むことができるツールがこんなにもあるのは、とても幸せだし感謝すべきことだと思います。
しかし、色補正やトレーミングをするっていうのは、商業的に考えるととても効率的で失敗もないわけですから理にかなっているんですが、あくまで作品の作者として考えた場合、ちょっと付き合い方をちゃんと考えないといけないのでは?と思います。
それは写真の特質すべき機能「決定的瞬間」の撮影には補正できない「ハプニング」があるわけで、それは「時間の経過とともに価値が変化する」ものだと私は考えておりますが、プリントの直前、いわば作画後と印画の間で補正してしまうと、その「決定的瞬間」の情報を削除してしまうことになりかねない。これって、写真が一番面白く芸術的な面を放棄することにつながり、他のツール(絵画とか音楽)と異なった特性を捨てること、写真が写真である意味、芸術となりうる可能性を捨ててしまうことにつながるのではと考えるからです。
青い空を青くプリントしたい気持ちはわかります。昔の人は、偏光フィルターをレンズにくっつけて撮影したりしていました。今もそうかもしれませんが、技術的に言ったらフォトショップで十分補正できてしまうわけです。リバーサルフィルムではほとんど不可能なことが、ワンクリックでできてしまう。これってどうなんでしょう?というのが、今日の私の主張です(なんか、勝間和代さんみたいな口調になってしまいました)。

フォトコンテストでは、オリジナルデータの提出が入選すると求められますので、写真の世界の仕来たりでは、きっと私と同じ主張が少なからず大勢を占めていると思いますが、イニシアティブ世代が変わってくると、様子も変わってくるかもしれません。
土門拳さんが、実存主義を唱えて写真撮影を行っていた時代と、フォトショップで自由に作画を変えられる現代。どちらが写真の世界にとっていいんでしょうか?答えは10年先、20年先にならないとわからないかもしれませんし、ひょっとしたら、未来永劫もめているかもしれません。
結局は、私個人がしっかりとしたポリシーをもって写真を撮っていけばいいんでしょうけど、答えは見つかるだろうか・・・。